銃規制を求める’March for Our Lives”について「いつもの土曜日」と書いた訳
昨日、ハフィントンポスト・ブログに「少しだけ特別ないつもの土曜日にみんなは銃規制強化の意思を伝えにやってきた: メディアに映らなかった数十万人のワシントンD.C.の一日」という投稿をアップしました。
感動的な記事が日本でも次々とアップされるのを見て、それに熱狂する一部の大人たちの投稿を見て、正直「またか」とちょっと残念に思ったからです。記事は集まった人の人数と、ステージでスピーチした感動的な子どもたち、若者たちのことばかり。ちょっとこれはまずいんじゃないか、と思った訳です。
確かに、こうした運動にはヒーローやヒロインが必要なのかもしれません。人の心を動かす物語も必要なんでしょう。けれど、その感動物語だけでは、いつもの社会運動・市民運動系の人たちの内輪受けか、消費される感動物語(最近では感動ポルノというんでしょうかね)で終わってしまうような気がしたから。少数のヒーローやヒロインだけで、感動の物語だけで、社会は変わらない、もしかしたら一般の人は一部が熱狂するほど離れていきさえするかもしれない。そのことは、ここ10年ほどNPO業界にいて痛いほどよくわかっているので。
それに、私がこの日DCのダウンタウンで見た景色は、こうしたヒーロー、ヒロインの感動物語ではなかった、そのギャップも単純に伝えておきたいと思ったので。素晴らしいスピーチを用意してくるような高校生ではなくて、”FxxK TRUMP”なんてサインボードを持って来ちゃう普通の高校生や、終了後マスコミに取り囲まれるのではなく友だちみんなでワシントンモニュメント(DC‥のダウンタウンの定番観光スポット)の前で自分たちのスマホを通りすがりの人に渡して記念写真を撮ってもらってはしゃいでいるような、そんな当たり前の若者が、あるいは気負いなく色々な大人たちが80万人も、100万人も集まっていたのだという事実を記録しておく必要があるのではないかと思いました。
そして、こうした現実こそ日米の違いであり、ここにこそ日本の「市民」運動と一般「市民」との大きな乖離の一端を埋めるヒントがあるような気がして、このギャップを少しでも埋めるような記事を書いておこうと思ったのです。